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中伊豆町指定文化財抜粋
中 伊 豆 町 誌 よ り
中 伊 豆 町 指 定 文 化 財 抜 粋 。
大見平三家政の墓
昭和六十三年四月指定 史跡
所在地 八幡
大見氏は古くからこの大見郷に土着した豪族で、
桓武平氏を称していた。
家政は、資料の中に最初に出てくる人物である。
この墓は現在(平成六年)、中伊豆公民館の東側に安置されているが、
元の位置は中伊豆中学校グランドの北側部分にあった田圃なかの
「大見塚、だいけんづか」、また、「宝剣塚」とも呼ばれる場所にあった。
このあたりは古くから「大見氏の陣場跡」と伝えられている。
大見氏の子孫は、治承四年(1180年)源頼朝による
源家再興の旗揚げに加わり戦功をたて、その側近として鎌倉幕府に仕えて活躍した。
大見小藤太成家の墓
(おおみことうたしげいえ)
昭和五十六年三月指定 史跡
所在地 柳瀬 ?
大見小藤太成家は、この地の豪族大見氏の一族で、
柳瀬の実成寺あたりに館を構え、八幡三郎行氏とともに、
伊東氏一族である工藤左衛門慰祐経に仕えていた。
平安時代末、安元二年(1176年)、伊東氏の内紛に巻き込まれ、
その争いの中で、安元三年、この馬場沢で非業の最期を遂げた武将である。
その後その跡へ供養の為墓を健立した。
墓は鎌倉時代の立派なものであるが、
中墓石は、明和五年(1768年)に補修されている。
福聚院の百番観音
所在地(関野)
宝暦八年(1758年)九月、福聚院第八世礼厳和尚は、
広く衆生救済しようと境内に百番観音を健立し、百体観音像を安置した。
いま堂内には、釈迦牟尼佛を中心に百体の木彫金箔の変化観音像が安置されている。
人々の願いごとを何でも聞いてかなえてくれるという現世利益の観音信仰が
室町時代(1392年〜1573年)以降、庶民の間に流行して、西国三十三ヶ所、
坂東三十三ヶ所、秩父三十三ヶ所などの札所巡拝が盛んに行われた。
ここの百体観音は上記の三札所の百体観音菩薩を一堂に祀ってあるので、
お詣りすれば一度に三ヶ所の百番札所巡りしたと同様の功徳が受けられる事になる。
費用も暇もない人たちのために勧請した由緒ある観音堂である。
八幡の十王尊
所在地 八幡法華堂
八幡十王尊がはじめて祀られたのは、元禄十年(1679年)八月十五日である。
慶応年中に堂宇を改築したが、
明治初年に無財産寺社は認めず等の布告の真意を解せず、
慌てて敷地と堂宇を売却して尊像を最勝院に預けた。
その後、区内に勧農連詰所を建てて安置したが、
明治二十八年(1895年)三月の大火で類焼して保福院に預けられた。
大正十三年に中学校正門より東方約十五メートルのところにお堂が建立されたが、
昭和三十八年五月中学校舎建築の為、現在地に移転した。
例大祭は毎年四月十六日、毎月十六日の縁日には
老人の皆さんが集まって念仏供養をしながら親睦の場としている。


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